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思考停止を恐れる20代大学生が、思考停止しないようにつらつらと社会のことや日々のことについて書いてます。

スキマ信州論① グローバル化の反動としてローカルを希求するメディア

 スキマ信州とは、今年からスタートしたローカルWebメディアである。

 

 スキマ信州のキャッチコピーは、「信州のスキマを好き!で埋める長野県のローカルwebマガジン」である。今まであまり知られてこなかった場所やお店などの隠れスポットや、信州通ならではの視点から紹介される信州の楽しみ方が複数のライターによって書かれている新しいカタチのWebメディアだ。

 

Skima信州(スキマ信州)〜信州のスキマを好き♡で埋める長野県のローカルwebメディア

 

 スキマ信州のような、ニッチなものにフォーカスするスタイルのメディアは英国の社会学アンソニー・ギデンズがいうところの後期近代的(late-modernity)なメディアであると言える。後期近代においては、通信手段の発達によって人間の身体は場所にとらわれなくなる(脱-埋め込み)と同時に、交通インフラの発達などによって、格段に人類の移動性(mobility)が増していった。

 

 それと同時にグローバル化の波に飲み込まれた21世紀は、米国のジャーナリストであるトーマス・フリードマンが言うように世界のフラット化が急速に進んだ時代でもある。フラット化した世界においては、米国の社会学ジョージ・リッツァが提唱した世界のマクドナルド化が進み、その合理化の徹底から生じる生活領域や消費の在り方の変化によって世界中どこに行っても同じような景色が広がるようになった。郊外を走れば、マクドナルド、ユニクロダイソー、コンビニ…というように。しかしその一方で、交通インフラが発達したことで世界のユニバーサル化は進み、今までは遠い観光地や秘境を訪れることができなかった高齢者や子供たちも世界中を旅できるようになった。

 

 また、フラット化する社会・グローバル化する社会おいてはその反動としてローカルなものを希求する動きが高まる傾向にあり、実際に世界各地でそうした傾向がみられる。世界的なポピュリズム政党の台頭に始まり、日本国内に目を向ければ近年の地方移住トレンドや地域づくり・地域活性化トレンドも、その流れの一部と解釈することが可能である。

 このような時代の流れの中で新たに始まったWebマガジンであるスキマ信州は、まさにフラット化・グローバル化する社会おいてローカルなものを希求する究極的な形であると言える。また、世界がフラット化しどこでも誰でも行ける時代になり、且つ情報技術の革新によって世界中の情報にアクセスできる時代になった今日においても全然知られていない超ローカルな場所は、逆に価値が高まっているきていると言えるのではないだろうか。

 

 そんな反転して価値が高まっている超ローカルなものを、一部の層だけでなく広く一般の人にも知ってもらえたらいいなというスキマ信州の姿勢は、「自分さえよければそれでいい」という新自由主義的な個人主義の高まりによって進んだ排除型社会に対して疑問符を突きつけるメディアであるとも言えるのではないだろうか。

 

 「こんな山奥にも人は住んでいる」「ただひたすらに地域の人のためにこだわりを持ってお店を営んでいるおばちゃんがいる」、そういった超ローカルな事柄に光をあてるスキマ信州は、新しいオンラインメディアの在り方を私たちに提示している。

 

 実はそれは、キャッチコピーにも象徴的に表れている。「信州のスキマを好き!で埋める長野県のローカルwebマガジン」という29文字のキャッチコピーのうちに「信州」「スキマ」「長野県」「ローカル」というローカル志向の言葉が4度も登場するのである。

 

 しかも、「スキマ」という言葉には“物と物の間”という意味以外に、特にマーケティングや社会ネットワーク理論界隈においては、“潜在的なつながりの可能性がある場所”“潜在的な需要がありながら誰も手を付けずに隙間になっている部分”という意味もある。

 

 グローバルなものばかり見ていても、潜在的に人々が求めている幸せは見つからない。現代社会を生きる私たちは、今こそ超ローカルな「スキマ」に目を向けるべきではないのだろうか。そこには、不確実性が高く不透明な時代を生きる私たちが生き抜くヒントが隠されているかもしれない。そんなことに気が付かせてくれる超ローカルなWebメディア、それがスキマ信州なのである。

 

・スキマ信州の成り立ちや、編集長が考えていることに興味がある方は、以下の信州池田活性化プロジェクト「Maple Tree」のHPに掲載されているフリーペーパーいけだいろ14号をご覧ください。

いけだいろを読む - 信州池田活性化プロジェクト「Maple Tree」HPページ!

マックス・ウェーバーの人間性

社会学で一番有名な人はだれか?」という質問がきたら、何と答えるだろか。

 

資本論共産党宣言で有名な・マルクスか。

社会学”という言葉を作ったオーギュスト・コントか。

自殺論で有名なエミール・デュルケームか。

日本人で上げるとすれば、オウム関連の事件で「終わりなき日常を生きろ」という言葉を残し、その冷淡な物言いと過激さで話題になった宮台真司か。

 

上記の人々はもちろん有名だが、今日の僕はマックス・ウェーバーを挙げたい。

1864年にドイツのエルフルトに生まれ、1920年に亡くなるまで幅広い分野に関する知見を駆使した越境的な社会学へのアプローチと、ドイツの在り方に誠実に向き合った社会学者である。

 

有名な著作は、宗教と資本主義の結びつきについて論じた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」通称”プロ倫”や、近代社会における支配の在り方について論じた「支配の社会学」等である。

 

マックス・ウェーバーは、社会学を学び始めたばかりの人やあまりなじみが無い人(かくいう僕もそっち側の人)にとっては「理論派」なイメージがあるかもしれない。

確かに、マックス・ウェーバーの著作や方法論は現在でも数多くの社会学テキストに掲載されているが、マックス・ウェーバーの振る舞いや人間性について触れているものは少ない。

 

そんな中、今日読んでいたマックス・ウェーバーの本は彼の人間性や人生にスポットを当てつつ、その姿勢やモットーを深く掘り下げていくちょっと変わったマックス・ウェーバー本であった。

 

それは、成蹊大学名誉教授でマックス・ウェーバー研究が専門の故安藤英治氏の著書「マックス・ウェーバー」である。

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まず初めに、マックス・ウェーバーはある手紙の中でこんなことを言っている。

「自分は本質的には実践的な人間であり、研究者には向かない、実践活動として教職が自分には一番向いている」と。

 

彼は、人の思想はその人の文章や喋りだけではなく、生き方そのもの、行為そのものが人間の思想であると主張した。彼が最も大切にしたことは、誠実さであり、言行一致である。

彼の主張を別の言葉で表すと、”認識と実践との乖離に対する警告”であったのだ。

 

このように、実はマックス・ウェーバーは理論家ではなく実践家なのだ。

 

その他にも、彼には愛国的ナショナリストとしての一面がある。

彼は生涯、ドイツを愛し、ドイツのために研究をした。

彼は愛国心について、次のように語っている。

「本当の愛国とは、国の現状に賛美を送り続けることではなく、国が間違っているときには勇気をもって非難し正しい方向に国を向かわせることだ。」

 

プロ倫も、支配の社会学も、一見するとそうは読めないが実はすべてドイツを憂いて、ドイツのためを思って書いている本なのである。

 

また、彼は客観性を大事にした社会学者でもある。

客観性を持ち続けることは、難しい。意識して、努力しなければ客観性は身につかない。彼は、そんな客観性を持ち続けることは禁欲的であることだと言い、そのためには”情熱”が大切だと説いた。

 

一つ目の情熱は、動機を持ち続ける情熱。

そして、もう一つは情熱の暴発を防ぐ情熱である。と。

そして、禁欲とはこの両者の緊張のバランスに他ならない。

 

ここまで見てきただけでも、「理論より実践」「愛国的ナショナリスト」「情熱」など、マックス・ウェーバーの従来のイメージでは浮かびづらい単語が出てきた。

 

これ以外にも、マックス・ウェーバーの恋愛の話や家族の話も出てくる本書。それらもすべて、のちのマックス・ウェーバーの研究に影響を与えるのだから、これもおもしろい。

 

興味がある方は、ぜひ本書を読んでみてはいかがだろうか。

社会学者の人間性に触れるのは、理論を覚え駆使することとはまた違ったおもしろさがある。

 

大学院受験生なのに…

今僕は、大学院受験生だ。

22歳、大学生、所属しているのは長野県内にあるしがない国公立大学

 

昨年8月~11月末まで、文部科学省のトビタテ!留学JAPANという制度を使ってイギリスに留学していた。その時の自分にとっては、行って何をするかよりも、中長期的に海外に行って勉強したという思いのほうが強かったので、表面的にはそこそこの成果を残したものの満足いかない気分で帰国した。

 

www.tobitate.mext.go.jp

 

うちの大学では、この制度を使って英語圏の国へ留学する場合は休学するしか方法が無かったので、僕は昨年4月~この3月まで大学を休学していた。休学して留学して戻ってきて、この4月から大学に復学。同級生はみんな卒業し、残った僕は後輩たちからすると「学生っぽくはないけど、先生でもない年上の人」ぐらいな感じに映っているようだ。

 

留学して一番良かったことは、「もっと勉強したい」と素直に思えたこと。

そして、そのツールとして「大学院に進学する」という選択ができたことだ。

 

それまでの自分は、大学院に進もうか就職しようかとても迷っていた。

うちの親は2人とも非正規雇用でお金は無いので、大学院に進むにしても全額実費。ただ、学びたいという思いは強い。そんな自分の背中を押したのが、留学生活だった。

 

実は、僕の留学は向こうの大学に属しているわけではなかった。インターンシップしながら語学を学びつつ自分の研究を自主的に進めるというスタイルだった。毎日図書館に行って勉強。たまに英語でインタビュー調査したりサーベイ調査をしては、それを英語でまとめる日々。

ただ、これがとても楽しかった。

もっと、学びたいんだと心から思えた。

 

というわけで、今年度に入ってからは大学院受験生として生きているけれども、残念なことにあまり勉強できていない。

そして、志望校が決まってきたのもつい最近。

英語に関しては、留学していたにもかかわらず他の人と比べると劣る。

進みたい分野も、大学3年まで学んできた内容とは異なる分野。

バイトもしないと生きていくお金が無いのでやる。

そんな状況なのに、今まで地域でやっていたプロジェクトに追加して新たに行政や町の人たちと組んで新たなプロジェクトをスタートする。

 

という、どう考えてもパンクしている昨今の自分。

 

なかなか、勉強に集中する環境が整えられない。

 

しかし、これは心理学や社会学的にみれば少し違うんだろう。

つまり、こういう状況を生み出しているのは自分であって、潜在的に「実は、今、あまり勉強したくない自分がいる」とも考えられる。

 

よーく胸に手を当てて考えてみる。。。

 

よし、「明日から」本腰を入れよう。

 

『人間の建設』を読んで~印象に残った言葉から~

 京都旅行の際に立ち寄った書店 誠光社で買った本がある。

 

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 『人間の建設』

 

 数学者 岡潔と批評家 小林秀雄の対談本だ。

 

 

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 雑誌新潮に対談が掲載されたのは1965年10月。

 

 1965年に起こった出来事を以下に挙げると、

・アメリカ軍による北ベトナム爆撃開始

・黒人運動指導者 マルコムXが暗殺される

日韓基本条約の締結

佐藤栄作首相、太平洋戦争後総理大臣として初めて沖縄県訪問

・日本最社のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」の放送開始

・中国で文化大革命が始まる

・日本、国際連合安全保障理事会非常任理事国に当選  などがある。

 

 第二次世界大戦終戦から20年。まだまだ”戦後感”があふれるニュースが多い。

 人間の建設では、このような時代に行われた対談であることを忘れさせるような内容が非常に多い。時代を経ても普遍的で現代に通じる言葉・考えが多く載っている。出版から約50年経っているのにもかかわらずである。

 

 小林秀雄岡潔は”天才”である。これだけは間違いない。天才と天才の対談は、凡人が読んでも理解できないことが多い。しかし、この本は理解しようと読む必要はないと私は思う。流れるような2人の会話に身を任せ、自らの意識がはっきりした部分を押さえていくように読めばいいのである。無理に理解しようとするとパラレルワールドに突入する。文庫本で約130ページと文章量は多くないが、情報量は凄まじいものがある。分からない言葉も多く出てくるが、最後に数十ページの注解があるので心配無用。注解だけ読んでいてもおもしろいくらい注解が充実しているのだ。

 

 

 ここから先は、読んでいて印象に残った言葉を取り上げて感想を記したいと思う。

 

 

  P24  8行目 

 

 岡「勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。」

 

 私たちは、たいていの場合に勘という言葉をマイナスなイメージで発する。イメージが定着しているからこそ、勘というから、どうでもよいと思うのです。という岡の言葉が出てくる。しかし、勘の本質とは何なのだろうか。例を挙げるならば、

「明日の試験には教科書の例題3の問題が出るはずだ!」

翌日

「やった! 昨日、練習した教科書の例題3の問題が出た! 勘が冴えているなぁ~」

というような具合に勘という言葉は用いられる。

 上記の場合、勘は当てずっぽうと同義語ではないだろう。試験に備えて過去のノートを読み返したり、出題する先生の性格や日々の発言を思い出したり、教科書の重要な問題にしるしを付けたりと自ら試験で良い点数を取るための努力や行動をしているはずだ。この努力や行動ができるということは、勘が当てずっぽうではなく知力であることを示しているといえるだろう。知力は経験や勉学の末に習得できるものである。つまり、勘も結局は経験や勉学の末に習得できるものなのである。逆に言えば、全く知らないものを勘によって当てることはとても難しい。多少なりとも触れたことがあるからこそ勘が当たるのである。

 

 

 P40 4行目

 

 岡「矛盾がないことを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。」

 

 数学において特に重要なのはロジカルに論理的に進めていくことだと一般的には思う。しかし、岡は違う。数学の成立には、知性の他に感情の満足が必要だという。岡は数学を感情的かつ芸術的、人間的に捉える人だと読んでいて感じた。

 これは、何も数学に限った話ではないだろう。いくら論を積み立てて説明しても納得しない人はいるものである。かといって、納得しない理由があるのかと聞くと特に無いという。本人は言葉にしないが、心の奥深く感情の根源で納得していないのである。もしくは、不愉快に思っているのかもしれない。究極の正論を突き付けられると理由もなくイラっとする印象を相手に持つという経験をしている人は少なくないだろう。有名大学卒業の社員のプレゼンは正論で論理的だが、なんか鼻に付くというように。

 

 

 P69 14行目

 

 小林「ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。上手く出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。」

 

 岡との対談だからこそ、小林はベルグソンのこの言葉を取り出してきたのだろう。数学の世界ではミレニアム問題という日本円にして約1億円の賞金がかけられた未解決問題もある。命を懸けて取り組んだとしても、最初に解けるのは一人だけ。

 数学同様に、時代は問題を抱えている。環境問題、核の問題、テロの問題、貧困の問題などなど挙げればキリがない。しかし、数十年前には問題になっていなかったものが大半である。時代を追うごとに新たな問題が生まれる。新たな問題が出てくるということは、その問題に対する世論の関心が高まることを意味する。つまり、今まで知らなかったもの・知っていたけど目をつむっていた問題が表舞台に現れるのである。問題であるということを意識した瞬間に解決への道は始まるのである。より良い解決方法を探すには、より良い問が社会に発せられる必要があるのである。数学においても、社会においても、批評においても、問題をうまく出せば即ちそれが答えなのである。

 

 

 人間の建設は、名言集である。それも、時代がたっても色あせることなく私たちの心に訴えかける名言の数々が対談の中で発せられている。興味を持った方は、ぜひ読んでみてはいかがだろうか? 私は、この本を若い人にお勧めしたい。そして、日本には天才がいたのだと知ってもらいたい。天才2人からの人生のアドバイスが、そこには隠れているかもしれない。

人と話すということについて

 私は、この春から大学を休学している。

 

 大学に通っているときも、たいして人と話していたわけではないが休学すると人と話す機会が減る。意識して話そうとしなければほとんど人と話さないで一日が終わる。SNSでつぶやいたりメールの返信をすることはあるが、それは人と話すことには入らない。そんな日常を送っているが、これでは駄目だと外に出かける日もある。というより、だいたいの日は外に出る。外に出ても意識していなければ人と話すことはないのだが。

 

 この前、久しぶりに学生たちが集まり他愛もない話をする会に顔を出してきた。ここ最近、哲学と文学にかぶれている自分は相当嫌な奴だったに違いない。最近、気づかぬうちに自分が嫌だと思っていた”語る大人”になっている瞬間がある。あの哲学者がなんたらとか、どこそこの地域ではこんな政策がとか、果てには自分が経験していて思うことはなどと話す始末である。帰りの車の中で、そんな自分が毎回嫌になるのは言うまでもない。

 

 その会で、人と話すことの意義について話が及んだ。私を含め数人は「多くの人と話すことに意義がある。話すことでコミュニケーションスキルが身に付くし様々なことを学べる。何より、質問能力が上がる」こういった具合である。ちなみに、その3人は皆、休学経験者。休学すると自分がそのあたりに転がっている大学生とは違う人間だと特別視する傾向にあるらしい。そして、休学して学んだことをこれでもかと語ろうとする。やっぱりこれも、嫌なやつである。

 

 すると、一人の学生が急に口を開いた。

 

 「僕は、人と話すこと。特に大人となんか話したくない。時間の無駄。彼らは自慢ばかりで何も中身がない話をする。しかも、永遠と。それよりかは友達と馬鹿話をしているほうが100倍楽しい。大人はめんどくさい。」と。

 

 正論である。というか、”普通の大学生”がいかにも語りそうな当たり前の内容である。バイトしたり地域で活動したり、ボランティアに参加したことで大人の嫌な部分に気が付くのが大学生だろう。中学以来の反抗期を迎えるのである。中学生のそれは親への反抗。大学生のそれは社会に対する反抗である。

 

 これに対して、先ほど人と話すことがいかに大切かを足を組んで語っていた3人のうち2人は何も言うすべなくうなずいているだけ。何か言いたそうだが言葉が見つからないようである。もしくは、言うことがないのか。しょうがなく(というより内心進んで)3人の残り1人の自分が一応の先輩として”偉そうに”意見を言った。

 

 「確かに、話しが全く面白くなく長いだけのめんどくさい大人は山ほどいる。そういう人との時間は無駄だと感じるし馬鹿馬鹿しくなってくる。でも、私はそんな大人たちと話すことにも意義があると思う。大学の講師や教習所の教官から学ぶことは多々あるだろう。しかし、本当の学びは生活の中にある。先ほどの中身がない大人との関係の中にも学びは存在する。それは、自分はこんな大人にはならないようにしようという学びである。つまり、反面教師というやつだ。世の中には反面教師が山ほどいる。多くの人と話せば多くの反面教師に会う。多くの反面教師と会うことは、己が進むべき道を示してくれるのである。この人みたいにはなりたくない。話が長い人は嫌だ。経歴はすごいけどイライラする話し方でムカつく、などなど。そういう人たちを心の中で排除することで、己が進むべき道がより鮮明にくっきりと浮かび上がるのである。また、多くの人と話すことで人生の師に出会う可能性も高まるだろう。人生の師はどこでどう出会うか分からない。だからこそ、多くの人と話すべきなのである。人生の師を見つけることで己が進むべき道が見えてくる。同時に、多くの反面教師と会うことでも同じように道が見えてくる。そうやって道はできていくのだ。」

 

 完全に語っている。これでは、彼が嫌だと言っていた説教臭く自分の意見ばかり言う大人と変わらないではないか。しかし、私の経験をもって言えることはこのくらいなのである。一応、彼もうんうんとうなずき最後には「なるほど」と心がこもっているのかこもっていないのか分からない小さな声でつぶやいていたので良しとしよう。

 

 会が終わり、車の中で冷静になって考えてみると、人と話すことにはもっと多くの意義があるように思えてきた。

 

 例えば、彼が嫌だと言っていた話が長く説教臭い大人たちは、なぜそういう風になってしまったのかと考える。これは、コミュニケーションが下手なのだ。言い方を変えれば、人との話し方を知らないのだ。知らないから、自分のことを話すしかないし、最近読んだ啓発本の一説を持ってくるくらいのことしかできないのである。では、なぜ人との話し方を知らないのか。それは、人と話すのがうまい人と比べて、話した人の数が少ないからだと言えるだろう。話した経験が少なければうまくなるはずがない。そういう人は、若いころに友達と馬鹿話しているのが楽しかったのだろう。そして、それが大人になっても続いているのだろう。

 

 ん? これは、どこかで聞いた話と同じだ。

 

 そう、先ほど彼が言っていたことと全く同じである。つまり、彼は大人と話すことに意義が見いだせずめんどくさいものとして処理していることによって、将来的に最もなりたくなかった大人像になってしまうのである。これを変えるためには多くの人と話し経験を積むしかないだろう。

 

 話すということは、言葉にすることである。

 言葉にするということは、形にすることである。

 

 心の中にあるものを形にした瞬間に、その感情はワンランク価値が落ちると爆笑問題太田光は語っていた。その通りである。形にするということは一般化するともいえる。オリジナリティにあふれた世界に一つだけの感情が一般化されてしまうのである。しかし、現状として言葉にしなければ相手とコミュニケーションをとることができない。言葉に頼ってしまった人類は、言葉以外のコミュニケーションが下手になったのである。

 

 多くの人と話すことを私は以上のように捉えている。雑誌の取材を通して2年間で約120人の方と話した結果分かったことである。無論、まだまだ話すことは下手だ。しかし、2年前の自分よりは幾分か話すことに慣れてきた。結局、数をこなすしかないのだ。私は、人と話しコミュニケーションをとることで視野が広がった。人と話すことには視野を広げる効果もあるのだ。他にも、自分の考えを整理するという効果もある。相手という鏡を通して自分を見つめ返すのだ。

 

 だから、人と話すことは楽しい。

 だから、人と話すことは大切だ。

 でも、人と人と話すことが苦しいこともある。

 それが、人と話すことなのだと私は思う。

 

2017 4.23