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そんな、今日この頃です。

地域、読書、哲学、倫理、メディア

『人間の建設』を読んで~印象に残った言葉から~

 京都旅行の際に立ち寄った書店 誠光社で買った本がある。

 

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 『人間の建設』

 

 数学者 岡潔と批評家 小林秀雄の対談本だ。

 

 

www.amazon.co.jp

 

 雑誌新潮に対談が掲載されたのは1965年10月。

 

 1965年に起こった出来事を以下に挙げると、

・アメリカ軍による北ベトナム爆撃開始

・黒人運動指導者 マルコムXが暗殺される

日韓基本条約の締結

佐藤栄作首相、太平洋戦争後総理大臣として初めて沖縄県訪問

・日本最社のカラーテレビアニメ「ジャングル大帝」の放送開始

・中国で文化大革命が始まる

・日本、国際連合安全保障理事会非常任理事国に当選  などがある。

 

 第二次世界大戦終戦から20年。まだまだ”戦後感”があふれるニュースが多い。

 人間の建設では、このような時代に行われた対談であることを忘れさせるような内容が非常に多い。時代を経ても普遍的で現代に通じる言葉・考えが多く載っている。出版から約50年経っているのにもかかわらずである。

 

 小林秀雄岡潔は”天才”である。これだけは間違いない。天才と天才の対談は、凡人が読んでも理解できないことが多い。しかし、この本は理解しようと読む必要はないと私は思う。流れるような2人の会話に身を任せ、自らの意識がはっきりした部分を押さえていくように読めばいいのである。無理に理解しようとするとパラレルワールドに突入する。文庫本で約130ページと文章量は多くないが、情報量は凄まじいものがある。分からない言葉も多く出てくるが、最後に数十ページの注解があるので心配無用。注解だけ読んでいてもおもしろいくらい注解が充実しているのだ。

 

 

 ここから先は、読んでいて印象に残った言葉を取り上げて感想を記したいと思う。

 

 

  P24  8行目 

 

 岡「勘というから、どうでもよいと思うのです。勘は知力ですからね。」

 

 私たちは、たいていの場合に勘という言葉をマイナスなイメージで発する。イメージが定着しているからこそ、勘というから、どうでもよいと思うのです。という岡の言葉が出てくる。しかし、勘の本質とは何なのだろうか。例を挙げるならば、

「明日の試験には教科書の例題3の問題が出るはずだ!」

翌日

「やった! 昨日、練習した教科書の例題3の問題が出た! 勘が冴えているなぁ~」

というような具合に勘という言葉は用いられる。

 上記の場合、勘は当てずっぽうと同義語ではないだろう。試験に備えて過去のノートを読み返したり、出題する先生の性格や日々の発言を思い出したり、教科書の重要な問題にしるしを付けたりと自ら試験で良い点数を取るための努力や行動をしているはずだ。この努力や行動ができるということは、勘が当てずっぽうではなく知力であることを示しているといえるだろう。知力は経験や勉学の末に習得できるものである。つまり、勘も結局は経験や勉学の末に習得できるものなのである。逆に言えば、全く知らないものを勘によって当てることはとても難しい。多少なりとも触れたことがあるからこそ勘が当たるのである。

 

 

 P40 4行目

 

 岡「矛盾がないことを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。」

 

 数学において特に重要なのはロジカルに論理的に進めていくことだと一般的には思う。しかし、岡は違う。数学の成立には、知性の他に感情の満足が必要だという。岡は数学を感情的かつ芸術的、人間的に捉える人だと読んでいて感じた。

 これは、何も数学に限った話ではないだろう。いくら論を積み立てて説明しても納得しない人はいるものである。かといって、納得しない理由があるのかと聞くと特に無いという。本人は言葉にしないが、心の奥深く感情の根源で納得していないのである。もしくは、不愉快に思っているのかもしれない。究極の正論を突き付けられると理由もなくイラっとする印象を相手に持つという経験をしている人は少なくないだろう。有名大学卒業の社員のプレゼンは正論で論理的だが、なんか鼻に付くというように。

 

 

 P69 14行目

 

 小林「ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。上手く出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。」

 

 岡との対談だからこそ、小林はベルグソンのこの言葉を取り出してきたのだろう。数学の世界ではミレニアム問題という日本円にして約1億円の賞金がかけられた未解決問題もある。命を懸けて取り組んだとしても、最初に解けるのは一人だけ。

 数学同様に、時代は問題を抱えている。環境問題、核の問題、テロの問題、貧困の問題などなど挙げればキリがない。しかし、数十年前には問題になっていなかったものが大半である。時代を追うごとに新たな問題が生まれる。新たな問題が出てくるということは、その問題に対する世論の関心が高まることを意味する。つまり、今まで知らなかったもの・知っていたけど目をつむっていた問題が表舞台に現れるのである。問題であるということを意識した瞬間に解決への道は始まるのである。より良い解決方法を探すには、より良い問が社会に発せられる必要があるのである。数学においても、社会においても、批評においても、問題をうまく出せば即ちそれが答えなのである。

 

 

 人間の建設は、名言集である。それも、時代がたっても色あせることなく私たちの心に訴えかける名言の数々が対談の中で発せられている。興味を持った方は、ぜひ読んでみてはいかがだろうか? 私は、この本を若い人にお勧めしたい。そして、日本には天才がいたのだと知ってもらいたい。天才2人からの人生のアドバイスが、そこには隠れているかもしれない。

人と話すということについて

 私は、この春から大学を休学している。

 

 大学に通っているときも、たいして人と話していたわけではないが休学すると人と話す機会が減る。意識して話そうとしなければほとんど人と話さないで一日が終わる。SNSでつぶやいたりメールの返信をすることはあるが、それは人と話すことには入らない。そんな日常を送っているが、これでは駄目だと外に出かける日もある。というより、だいたいの日は外に出る。外に出ても意識していなければ人と話すことはないのだが。

 

 この前、久しぶりに学生たちが集まり他愛もない話をする会に顔を出してきた。ここ最近、哲学と文学にかぶれている自分は相当嫌な奴だったに違いない。最近、気づかぬうちに自分が嫌だと思っていた”語る大人”になっている瞬間がある。あの哲学者がなんたらとか、どこそこの地域ではこんな政策がとか、果てには自分が経験していて思うことはなどと話す始末である。帰りの車の中で、そんな自分が毎回嫌になるのは言うまでもない。

 

 その会で、人と話すことの意義について話が及んだ。私を含め数人は「多くの人と話すことに意義がある。話すことでコミュニケーションスキルが身に付くし様々なことを学べる。何より、質問能力が上がる」こういった具合である。ちなみに、その3人は皆、休学経験者。休学すると自分がそのあたりに転がっている大学生とは違う人間だと特別視する傾向にあるらしい。そして、休学して学んだことをこれでもかと語ろうとする。やっぱりこれも、嫌なやつである。

 

 すると、一人の学生が急に口を開いた。

 

 「僕は、人と話すこと。特に大人となんか話したくない。時間の無駄。彼らは自慢ばかりで何も中身がない話をする。しかも、永遠と。それよりかは友達と馬鹿話をしているほうが100倍楽しい。大人はめんどくさい。」と。

 

 正論である。というか、”普通の大学生”がいかにも語りそうな当たり前の内容である。バイトしたり地域で活動したり、ボランティアに参加したことで大人の嫌な部分に気が付くのが大学生だろう。中学以来の反抗期を迎えるのである。中学生のそれは親への反抗。大学生のそれは社会に対する反抗である。

 

 これに対して、先ほど人と話すことがいかに大切かを足を組んで語っていた3人のうち2人は何も言うすべなくうなずいているだけ。何か言いたそうだが言葉が見つからないようである。もしくは、言うことがないのか。しょうがなく(というより内心進んで)3人の残り1人の自分が一応の先輩として”偉そうに”意見を言った。

 

 「確かに、話しが全く面白くなく長いだけのめんどくさい大人は山ほどいる。そういう人との時間は無駄だと感じるし馬鹿馬鹿しくなってくる。でも、私はそんな大人たちと話すことにも意義があると思う。大学の講師や教習所の教官から学ぶことは多々あるだろう。しかし、本当の学びは生活の中にある。先ほどの中身がない大人との関係の中にも学びは存在する。それは、自分はこんな大人にはならないようにしようという学びである。つまり、反面教師というやつだ。世の中には反面教師が山ほどいる。多くの人と話せば多くの反面教師に会う。多くの反面教師と会うことは、己が進むべき道を示してくれるのである。この人みたいにはなりたくない。話が長い人は嫌だ。経歴はすごいけどイライラする話し方でムカつく、などなど。そういう人たちを心の中で排除することで、己が進むべき道がより鮮明にくっきりと浮かび上がるのである。また、多くの人と話すことで人生の師に出会う可能性も高まるだろう。人生の師はどこでどう出会うか分からない。だからこそ、多くの人と話すべきなのである。人生の師を見つけることで己が進むべき道が見えてくる。同時に、多くの反面教師と会うことでも同じように道が見えてくる。そうやって道はできていくのだ。」

 

 完全に語っている。これでは、彼が嫌だと言っていた説教臭く自分の意見ばかり言う大人と変わらないではないか。しかし、私の経験をもって言えることはこのくらいなのである。一応、彼もうんうんとうなずき最後には「なるほど」と心がこもっているのかこもっていないのか分からない小さな声でつぶやいていたので良しとしよう。

 

 会が終わり、車の中で冷静になって考えてみると、人と話すことにはもっと多くの意義があるように思えてきた。

 

 例えば、彼が嫌だと言っていた話が長く説教臭い大人たちは、なぜそういう風になってしまったのかと考える。これは、コミュニケーションが下手なのだ。言い方を変えれば、人との話し方を知らないのだ。知らないから、自分のことを話すしかないし、最近読んだ啓発本の一説を持ってくるくらいのことしかできないのである。では、なぜ人との話し方を知らないのか。それは、人と話すのがうまい人と比べて、話した人の数が少ないからだと言えるだろう。話した経験が少なければうまくなるはずがない。そういう人は、若いころに友達と馬鹿話しているのが楽しかったのだろう。そして、それが大人になっても続いているのだろう。

 

 ん? これは、どこかで聞いた話と同じだ。

 

 そう、先ほど彼が言っていたことと全く同じである。つまり、彼は大人と話すことに意義が見いだせずめんどくさいものとして処理していることによって、将来的に最もなりたくなかった大人像になってしまうのである。これを変えるためには多くの人と話し経験を積むしかないだろう。

 

 話すということは、言葉にすることである。

 言葉にするということは、形にすることである。

 

 心の中にあるものを形にした瞬間に、その感情はワンランク価値が落ちると爆笑問題太田光は語っていた。その通りである。形にするということは一般化するともいえる。オリジナリティにあふれた世界に一つだけの感情が一般化されてしまうのである。しかし、現状として言葉にしなければ相手とコミュニケーションをとることができない。言葉に頼ってしまった人類は、言葉以外のコミュニケーションが下手になったのである。

 

 多くの人と話すことを私は以上のように捉えている。雑誌の取材を通して2年間で約120人の方と話した結果分かったことである。無論、まだまだ話すことは下手だ。しかし、2年前の自分よりは幾分か話すことに慣れてきた。結局、数をこなすしかないのだ。私は、人と話しコミュニケーションをとることで視野が広がった。人と話すことには視野を広げる効果もあるのだ。他にも、自分の考えを整理するという効果もある。相手という鏡を通して自分を見つめ返すのだ。

 

 だから、人と話すことは楽しい。

 だから、人と話すことは大切だ。

 でも、人と人と話すことが苦しいこともある。

 それが、人と話すことなのだと私は思う。

 

2017 4.23

キッカケとカウントダウン

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私が好きなラジオパーソナリティに、

伊集院光さんという方がいる。

 

クイズ番組で、よく見かけるあの方。

もとは落語家のあの方。

NHK 100分de名著のあの方。

 

伊集院光さんがメインパーソナリティを務める番組に、

日本文学者のロバート・キャンベルさんが出演した回があった。

32分という短い時間の中で、ロバートさんの日本への疑問が炸裂した。

 

人間は、自分のこととなると極度に盲目になる。

見えているようで全く見えていない。

見えていたとしても、自分が見ている自分と他者から見た自分は違う。

 

この場合の自分とは、なにも一人の人間を指しているのではなく、

日本人、男、女、主婦、子ども、メガネの人という括りをさすこともある。

 

ロバートさんは日本文学の研究者。

外国人でアメリカ出身であることをここでは強調する。

そうすると、一つの疑問が誰しも浮かび上がるはずだ。

「なぜ、日本文学に興味を持ったんですか? キッカケは何ですか?」と。

伊集院光さんも上記のような質問をした。

 

それに対してのロバートさんはこう言った。

「日本人って、2つとても好きなものがありますよね。

 キッカケいつまでに何をやるかというカウントダウンの2つです。」

 

私たちは、そんなことを意識して質問したことはなかった。

ただ、純粋に疑問に思うから聞くのだ。

しかしよく考えてみると、

何かを好きになるのにキッカケという点は存在するのだろうか。

いや、点が存在しないことのほうが多いのではないだろうか。

 

”自然と”

”なんとなく”

”いつの間にか”

”気が付いたら”

 

好きになるってそういうものではないだろうか。

興味を持つってそういうものではないだろうか。

 

しかし、日本人は点を求める。

多分、点があったほうが安心するのだろう。

 

 

2つ目のカウントダウンについても、ロバートさんは語った。

「日本人って、いつまでに何をやるとか、何時までにどこに行くとか、

決めるのが好きですよね。時限といいましょうか。

太陰暦や農耕民族であったことが深く関わっているのだと思います。」

 

例を挙げるなら、番付、年表、カレンダー、

このようなものを日本人は好む特性があるらしい。確かに。

ラジオではこの先、日本文学の時間の流れの話になったが今日は割愛。

 

キッカケなんてない。

これは、そぎ落とされて残ったものにすぎない。

それって、たぶん、おもしろいから残ったんだ。

好き、嫌いにも理由なんてない。

本能的なものとしか言えない。

 

本能的なものですべてが片付くとも思わないが、

この上なく便利で使いやすい言葉だ。

 

キッカケを意識しない生き方がしたいと思う今日この頃。

近況報告

近況をFacebook用にまとめました。
思いのほか、今の自分が投影された文章になっていたので、
こちらでも共有します。
 
 
 
---------以下、Facebook投稿 3月30日--------------
 
 
 
■遅ればせながら…諸々の報告 ※長文ですm(__)m
 
3月28日に一つ歳を重ねました。
21歳という中途半端極まりない年齢です。
 
メッセージを送っていただいた皆さん、ありがとうございます。
改めて個々にゆっくり返信します。
 
 
2月、3月とここ数年で最も不安定な日々を送っていました。
大学に入ってから忘れていた自分の根底にあるものと、
久しぶりに対面した感じと言いますか…
大学に入ってから築いてきた様々なものが、
嘘っぽく白々しく軽く見えてしまったのです。
人づきあいも、地域も、様々な活動も、SNSも。
言葉には言い表せない何かに恐れ幻滅し、
沈み逃げていました。
 
 
良いほうに捉えますと、人と本を通して、
自らと他者を深く掘り下げられた濃密な2か月でもありました。
池田で、大町で、安曇野で、上田で、東京で、
今まで出会ったことが無かったおもしろい人達との出会い、
思いがけない再会があり嬉しかったです。
 
 
ただ、立ち止まっている間にも時間は流れていたわけでして…
ご迷惑おかけした皆さん、スミマセン。
 
 
 
ざっくりとですが、近況を報告します。
 
 
 
1、文部科学省 トビタテ!留学JAPANに受かりました。
  第6期、全国から500人の学生が選ばれました。
  当初の計画がうまく進まず、大幅な計画修正中のため、
  100%行けるとは言い切れない現状があります。
  国の担当の人曰く、「君の書きぶり次第だな」とのこと。
  書類を通し次第、11月末までイギリスに行く予定です。
  将来や計画に?が浮かび、これでいいのかと自問自答の
  日々ですが、選ばれたからには全力で臨みます。
 
 
2、上記に伴って、2017年4月1日~2018年3月31日まで、
  長野大学を1年間休学します。
  疑問と不安しかない未来を少しでも鮮明に描けるような、
  学びと経験に没頭する年にしたいと思います。
 
 
3、フリーペーパーいけだいろ、最新号は、、、
  なんとか3月中に間に合いました!
  明日から各所に配布させていただきます。
  同時に、サポーター制度もスタートします。
  「中身も金銭面の地域で生み出す」をテーマに、
  2017年度は活動していきます。
  自分がいなくても、仲間がいるので大丈夫です。
  なんでも1人でやろうとするのは止めて、
  この1年は周りの人達を信頼したいと思います。
 
 
4、Facebookで仲間がシェアしてくれていましたが、
  東京大学博報堂がコラボして開催した、
  ブランドコンテストBranco!に挑戦しました。
  結果は2次予選敗退でしたが、
  大学に入ってから忘れかけていた、
  考えること、悩むこと、突き詰めることの、
  苦しさとおもしろさを再認識させてくれました。
  共に挑戦した仲間に感謝です。
 
 
5、4月1日は、プレスピ2017『あるをつくして!』という
  プレゼンイベントに出させていただきます。
  爆笑間違いなしの強者プレゼンターがそろう中で、
  しんみりとした話をする予定です。。。
  来て損はありません。ぜひお越しください!
 
 
 
書き出せばきりがありませんが、このあたりでwww
まぁ、2月3月は寒かったので冬眠期間だったということで(笑)
4月から切り替えます。というか切り替えないと不味いですね。
 
 
悩み、考え、学ぶことの楽しさという苦しさを、
追及する1年にしたいと思います。
 
 
今後も、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。

約1年ぶりの記事。「地域の最大資源は何だ?」

2017,3,30

 

約1年ぶりに記事を書きます。

 

理由は3つ。

 

1、4月1日から大学を休学するから。

2、もっと、学び考え自らを深く知らなければならないと思ったから。

3、文字にすること、文字で残すことに意味があるから。

 

昨年までは、地域活性化系の記事や魅力発見系の記事が多かったのですが、

これからは、日記的に日々思ったことを綴るつもりです。

 

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■3月30日に思ったこと。

 

 

「地域の最大資源は何だ?」

 

 

結局、地域よりの日記になっていることに逃れられなさを感じるのですが。

 

4月1日、長野県松本市で行われるプレゼンイベントに登壇させていただきます。

地域のあるをつくす!がテーマということで、招待いただきました。

プレスピ2017『あるをつくして!』

 

約2年、地域密着型のフリーペーパーを発行してきて、

また、様々な場所に足を運ぶ中で気が付いたこと。

 

それは、

「良くも悪くも、結局は人である。」ということなのです。

 

地域には様々な資源があります。

景観・歴史・文化・建物・名産品・お店

しかし、どの資源も活用するのは現状、人です。

 

もちろん、人以外のものが使っているものもあります。

もちろん、人がすべて作ったわけではありません。

 

でも、結局のところ現代社会では、これらは人が売り人が買うのです。

 

例を出すならば、

どんなにおしゃれで安く環境がいいカフェがあっても、

オーナーが苦手なタイプで気が合わなければ継続して行かないですよね?

 

「あえて、自分とは違うタイプの人と会いに行く!」

という強者もいるとは思いますが、たいていの人は、

自分と合わない人がいるところにわざわざストレスを溜めには行かないでしょう。

 

まとまえると、

地域の資源を活かすも殺すも人次第。

だから、人が最大の地域資源である。

”魅力的な人”という資源が人を呼び込むのです。

また、”魅力的な人”を売り込むのも”商売上手な人”なのです。

 

そんな風に、人について考える今日この頃です。