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人と話すということについて

 私は、この春から大学を休学している。

 

 大学に通っているときも、たいして人と話していたわけではないが休学すると人と話す機会が減る。意識して話そうとしなければほとんど人と話さないで一日が終わる。SNSでつぶやいたりメールの返信をすることはあるが、それは人と話すことには入らない。そんな日常を送っているが、これでは駄目だと外に出かける日もある。というより、だいたいの日は外に出る。外に出ても意識していなければ人と話すことはないのだが。

 

 この前、久しぶりに学生たちが集まり他愛もない話をする会に顔を出してきた。ここ最近、哲学と文学にかぶれている自分は相当嫌な奴だったに違いない。最近、気づかぬうちに自分が嫌だと思っていた”語る大人”になっている瞬間がある。あの哲学者がなんたらとか、どこそこの地域ではこんな政策がとか、果てには自分が経験していて思うことはなどと話す始末である。帰りの車の中で、そんな自分が毎回嫌になるのは言うまでもない。

 

 その会で、人と話すことの意義について話が及んだ。私を含め数人は「多くの人と話すことに意義がある。話すことでコミュニケーションスキルが身に付くし様々なことを学べる。何より、質問能力が上がる」こういった具合である。ちなみに、その3人は皆、休学経験者。休学すると自分がそのあたりに転がっている大学生とは違う人間だと特別視する傾向にあるらしい。そして、休学して学んだことをこれでもかと語ろうとする。やっぱりこれも、嫌なやつである。

 

 すると、一人の学生が急に口を開いた。

 

 「僕は、人と話すこと。特に大人となんか話したくない。時間の無駄。彼らは自慢ばかりで何も中身がない話をする。しかも、永遠と。それよりかは友達と馬鹿話をしているほうが100倍楽しい。大人はめんどくさい。」と。

 

 正論である。というか、”普通の大学生”がいかにも語りそうな当たり前の内容である。バイトしたり地域で活動したり、ボランティアに参加したことで大人の嫌な部分に気が付くのが大学生だろう。中学以来の反抗期を迎えるのである。中学生のそれは親への反抗。大学生のそれは社会に対する反抗である。

 

 これに対して、先ほど人と話すことがいかに大切かを足を組んで語っていた3人のうち2人は何も言うすべなくうなずいているだけ。何か言いたそうだが言葉が見つからないようである。もしくは、言うことがないのか。しょうがなく(というより内心進んで)3人の残り1人の自分が一応の先輩として”偉そうに”意見を言った。

 

 「確かに、話しが全く面白くなく長いだけのめんどくさい大人は山ほどいる。そういう人との時間は無駄だと感じるし馬鹿馬鹿しくなってくる。でも、私はそんな大人たちと話すことにも意義があると思う。大学の講師や教習所の教官から学ぶことは多々あるだろう。しかし、本当の学びは生活の中にある。先ほどの中身がない大人との関係の中にも学びは存在する。それは、自分はこんな大人にはならないようにしようという学びである。つまり、反面教師というやつだ。世の中には反面教師が山ほどいる。多くの人と話せば多くの反面教師に会う。多くの反面教師と会うことは、己が進むべき道を示してくれるのである。この人みたいにはなりたくない。話が長い人は嫌だ。経歴はすごいけどイライラする話し方でムカつく、などなど。そういう人たちを心の中で排除することで、己が進むべき道がより鮮明にくっきりと浮かび上がるのである。また、多くの人と話すことで人生の師に出会う可能性も高まるだろう。人生の師はどこでどう出会うか分からない。だからこそ、多くの人と話すべきなのである。人生の師を見つけることで己が進むべき道が見えてくる。同時に、多くの反面教師と会うことでも同じように道が見えてくる。そうやって道はできていくのだ。」

 

 完全に語っている。これでは、彼が嫌だと言っていた説教臭く自分の意見ばかり言う大人と変わらないではないか。しかし、私の経験をもって言えることはこのくらいなのである。一応、彼もうんうんとうなずき最後には「なるほど」と心がこもっているのかこもっていないのか分からない小さな声でつぶやいていたので良しとしよう。

 

 会が終わり、車の中で冷静になって考えてみると、人と話すことにはもっと多くの意義があるように思えてきた。

 

 例えば、彼が嫌だと言っていた話が長く説教臭い大人たちは、なぜそういう風になってしまったのかと考える。これは、コミュニケーションが下手なのだ。言い方を変えれば、人との話し方を知らないのだ。知らないから、自分のことを話すしかないし、最近読んだ啓発本の一説を持ってくるくらいのことしかできないのである。では、なぜ人との話し方を知らないのか。それは、人と話すのがうまい人と比べて、話した人の数が少ないからだと言えるだろう。話した経験が少なければうまくなるはずがない。そういう人は、若いころに友達と馬鹿話しているのが楽しかったのだろう。そして、それが大人になっても続いているのだろう。

 

 ん? これは、どこかで聞いた話と同じだ。

 

 そう、先ほど彼が言っていたことと全く同じである。つまり、彼は大人と話すことに意義が見いだせずめんどくさいものとして処理していることによって、将来的に最もなりたくなかった大人像になってしまうのである。これを変えるためには多くの人と話し経験を積むしかないだろう。

 

 話すということは、言葉にすることである。

 言葉にするということは、形にすることである。

 

 心の中にあるものを形にした瞬間に、その感情はワンランク価値が落ちると爆笑問題太田光は語っていた。その通りである。形にするということは一般化するともいえる。オリジナリティにあふれた世界に一つだけの感情が一般化されてしまうのである。しかし、現状として言葉にしなければ相手とコミュニケーションをとることができない。言葉に頼ってしまった人類は、言葉以外のコミュニケーションが下手になったのである。

 

 多くの人と話すことを私は以上のように捉えている。雑誌の取材を通して2年間で約120人の方と話した結果分かったことである。無論、まだまだ話すことは下手だ。しかし、2年前の自分よりは幾分か話すことに慣れてきた。結局、数をこなすしかないのだ。私は、人と話しコミュニケーションをとることで視野が広がった。人と話すことには視野を広げる効果もあるのだ。他にも、自分の考えを整理するという効果もある。相手という鏡を通して自分を見つめ返すのだ。

 

 だから、人と話すことは楽しい。

 だから、人と話すことは大切だ。

 でも、人と人と話すことが苦しいこともある。

 それが、人と話すことなのだと私は思う。

 

2017 4.23